中川清秀由緒地
中川清秀由緒地
武将・中川清秀は天文11年(1542年)旧福井村中河原で生まれました。 戦国の世の成長株として茨木城主となった中川清秀は、当初(白井河原合戦前後)荒木村重と共に織田信長に反旗を掲げていましたが、同じ立場をとっていた高槻の高山右近が信長に投降したこともあり、清秀も村重に背いて信長側につきました。“本能寺の変”に驚いた清秀は直ちに備中に出陣中の豊臣秀吉のもとに知らせを送りました。その後の山崎の合戦では清秀は、高山右近と共に秀吉軍の先鋒として活躍いたしました。
秀吉が柴田勝家と対立した“賤ヶ(しずが)岳(だけ)の戦い”では清秀は秀吉軍として出陣しますが、そこで戦死してしまいます。その時、遺髪は茨木にもたらされ、菩提寺(ぼだいじ)である梅林寺(ばいりんじ)(片桐(かたぎり)町)に葬られています。清秀42歳の時でありました。
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